トランスナショナル象の道草記

海外駐在経験者による気ままなブログ

泡沫政党の淘汰で討論文化の興隆を

参議院議員選挙もいよいよ明日に迫りましたが、筆者が関心を持っているのは、中小というか泡沫政党の行方です。

筆者、テレビの政治討論番組と言うのは基本的に見ないんですが、それというのも参加者が非常に多すぎるということがその理由です。参加者が多いために基本的にそれぞれの政党の言いっぱなしになっていて、誰かが言ったことについての反論等が一切ありません。そのために一種の政治宣伝を聞いているようなもので、討論になっていないわけですよ。それならば、わざわざテレビを見るまでもなく、選挙広報を見れば済む話で、視聴時間の無駄ですよね。もちろん、詳細を少数意見も尊重ということも必要かと思いますが、それも程度問題で、議席数一桁の政党がたくさん並ぶのはねえ。

何よりも、このような小党乱立というか尊重が、日本で討論の前の文化がなかなか定着しないことにつながっているのではと感じます。やはり、政治は議論であり、丁々発止の論争を期待したいところです。ですので、今回の選挙では、小政党の多くにはフェードアウトしてもらうことが日本の政治にも寄与するのではないか、少なくとも政党要件とかTV出演のハードルも上げるべきではと切に思います。

政治的チャラキャラの退潮?

ブレグジットはそれなりにショッキングなイベントでしたが、それより驚かされたのは、「離脱派」とされる面々のあまりの軽さです。党首選出馬が当然視されていたボリス・ジョンソンの辞退にもびっくりさせられましたが、独立党のナイジェル・ファラージなど、売り物の公約だったEU拠出金の福祉予算振替案を実行不可能として取り下げただけでなく、党首を辞任してしまうんですから。もうどうしようもないとしか言いようがなく、こんな連中を信じて投票した人々が気の毒になります。

もっとも、これは一概にバッドニュースというばかりではなく、むしろ世界的にはいい教育効果になるんじゃないかと期待しています。何しろ、軽率な投票行動が後で重大なしっぺ返しにつながることが如実に示されたわけですから、特に欧米に蔓延しつつあるポピュリズムへの一つの防波堤になってほしいものです。現に直後に行われたスペイン総選挙では、ポピュリズム的な政党の伸び悩みが見られたようです。

ただ、ポピュリズム=悪とも言い切れない面があり、ある層の人々の置かれている状況を社会に知らしめるという効果もなくはないです。とはいえ、あること無いこと言い立てたり、キャッチ―な言説で議論をゆがめるのだけはいただけません。こういうのは、ポピュリストというだけではなく、政治的なチャラ男(女性もありうるのでチャラキャラとでも呼びましょう)と言うべき存在です。

そういう意味では、言うまでもなくドナルド・トランプこそまぎれもない政治的チャラキャラですね。彼の昔を知る人による真の(?)人物像と今の姿の乖離には探求心をそそられますが、それはさておき、主張の内容よりもその訴求のスタイルによって、ある層の溜飲を下げ支持を伸ばすそのやり方は、感情に流される政治を持ち込むという意味で大変危険ですね。何より、かなり多数の層の本音を暴露してしまったため、他国のアメリカ人観に多大な影響が出るのは避けられないかと危惧します。まあ、公民権運動以来の差別撤廃の動きに建前上付き合うのに疲れたという面もあるんでしょうが、やはり繰り返しによって常識を変えていくべきであって、蒸し返しはまずいと思うんですね。

彼の場合は、本当に最初どこまで本気で大統領職を目指したか疑問なしとはしませんが、少なくとも政治討論会を「子供に見せられない」状況にしてしまったのは大きな罪でしょう。

とはいえ、さすがに飽きられてきたようにも見受けられる中、イギリスの教訓が生きることを願わずにはいられません。ジョンソンとも二重写しですし。

ひるがえって、日本ですが、東京都知事選に小池氏が立候補ですか。筆者、氏の政治的・行政的力量は全くわかりませんが、何となく都知事という仕事自体に興味があるというよりも、政治的なスプリングボードとしたいという雰囲気をぷんぷん感じます。そもそも、今の混乱の元は石原慎太郎氏の身勝手な途中辞任に端を発しているわけで、いいかげん都民もチャラキャラを選ぶことのデメリットに目覚めてほしいものです。目立ちはするものの、所詮一都道府県の行政の長ですので。

イギリスEU離脱と「ロシュの限界」

イギリスのEU離脱のニュースを聞いていて、ふと天体力学で言う「ロシュの限界」というのを思い出しました。
これは、大きさの異なる天体がある距離以下に接近すると小さい方が大きい方の潮汐力(引力によって歪むこと)により崩壊するというものです。実際には主星と伴星・衛星の間で起こる現象のようで、今回改めて調べてみると地球の半径の3倍以内に近づくと月が崩壊する計算とか。最初に知ったのは小学生の時に読んだSF読み物なんですが、変に記憶に残ってまして。
さて、一種のアナロジーではありますが、今回の離脱を巡る混乱はEUというか大陸とのさまざまなやり取りがイギリス社会にいかに深刻なストレスを与えていたかを露わにしました。また、国論が二分された以上にスコットランド独立論など、連合王国という枠組み自体が危機に瀕しており、それが実現してしまうとまるで社会的なロシュの限界現象に見えてしまいます。
ただ問題は、この場合の「主星」は果たしてEUなのかということです。実は、本当の主星はグローバル化なのではないでしょうか。今回の国民投票では移民の問題がクローズアップされたようですが、これは今に始まったことではなく、むしろ格差の拡大というか取り残され感が大きかったのではないかという感じがしています。グローバル化は一部の仕事で途方もない利益をもたらしますが、単純労働にとっては移民という直接的な形だけでなく製品・サービスの流通という間接的な形態でもより低所得国の人々と競争させられるわけですから。
そして、このことは比較的小規模のイギリスのみならず、EU自体や超大国だって主星でなく伴星化する可能性があると考えられます。


ところで、ロシュの限界を計算する際には、天体の結着性は一定(要するに重力のみで結合している)ことを前提としているそうな。実際は化学的な意味での結着性は個々の天体で異なります。

同じように、国というものも結着性にはばらつきがあり、外的要因への抵抗力も相当違うはずですね。その意味からは現在のUKというのはやはりリスキーと言わざるを得ません。日本人にとっては、「連合王国」という、システム自体が国の通称になっているというのはやはり違和感があります。土着性に欠けるというか。まあ、これはUSにも言えることなんですけどね。

国というか、社会の結着性はグローバル化だけでなく、少子高齢化とか地域間の格差拡大とか移民の増加とかで大きく変化していると感じます。言い換えれば、国によっては(多分多くの国では)統治のコストが大幅に上がっているということなんでしょう。この「統治コスト」というのは、国を見るうえで重要な指標になりうると思います。

 

ところで、「グローバル化」とは言いますが、これは単に伝播の速度が上がったということを指しているわけで、伝播されるのは地域間の差異(情報も含め)なんですね。思えば歴史は異なるものの交渉ともいえるんですが、この「差異」は次々に生産されるもので、決してボルツマン的な一様で静的な世界なんか来るわけがありません。そういう意味からは、しばらくは自己防衛の手立てを講じつつ、歴史のダイナミズムを楽しむのが正しい態度かなと思っています。

権威と権力の分離の得失

天皇家がなぜ続いたのかは日本史の最大の論点の一つかと思うんですが、そのカギとして、権威に徹したという部分があるかと感じています。

権力は必ず腐敗すると言われていて事実もそれを裏打ちしています。中国での王朝交代も易姓革命などと一応理論化されていますが、実際は制度疲労による崩壊以外の何物でもありません。どこの王朝でも、あるいは企業においても絶対権力というのは長続きしないですな。

天皇家において、絶対権力を握っていた時期というと天智・天武・持統朝から平安初期、院政期、それに建武の新政の一時期くらいしか思い浮かべられません。また、天智朝は後継者が打倒され、天武・持統朝の後は徐々に藤原氏の伸長が見られるのと仏教の尊重による権威づけを進めます。院政期の白河法皇なんか日本史では珍しいほどの専制君主ですが、これとて形式的な権威は天皇位にあり、自分は実権力の掌握に集中しています。

その意味から、後醍醐天皇ってやはり異端です。まさに、網野善彦の「異形の王権」そのもので、その仕組みの無理もたたってあんな短期政権になってしまったわけですが、もたなかった理由の一つが天皇親政派に対する対抗勢力としての院政派というか権威・権力分離派の存在です。というか、それがいわば当時の常識で、後醍醐天皇の方が「跳ね返り」なんですね。ですから、北朝って幕府の傀儡というイメージがありますが、どうして結構な実力があったようです。面白いことに、南北朝動乱の最中に一時北朝方の天皇・上皇がすべて南朝に拉致されるという事態が起こった時に天皇を立てたんですが、院政を行うべき皇族がいなかったため、皇族でない天皇の祖母を治天の君とするんですね。

この院政、室町中期には実質上消滅したようですが、形式上は断続的に存続し、最後の例は幕末近くになってからとか。

 

この、権威と権力の分離、日本には結構見られるように感じられます。特に、長続きしている会社は大抵オーナーシップと経営が分離しています。昔の大商家なんか、主家は泰然としていて番頭が切り盛りし、重大事と人事のみ関与していました。あるいは、有能な番頭と娘を結婚させて当事者能力を維持するという方向もありました。どうも江戸期ぐらいになると社会の安定度が増し、一種の法人資本主義化が進んで、オーナーも自己防衛のためにこのような方向に進んだんでしょう(大名からして初期の「〇〇家」が最後には「〇〇藩」になっていきますし、集団を守るための「主君押し込め」なんかも起こってくるわけですね)。

 

このような権威と権力の分離は、ある意味普遍的な部分がありますが、ヨーロッパなんかは権威の源を宗教という天上に求めたわけで、現世ではやはり絶対性を追求しています。確かに現代ではバーリ&ミーンズのいう資本と経営の分離という現象はあるものの、経営のプロ化という面が強く、権威と権力の分離による統治には当たりにくいのではと思います。

 

問題は、権威と権力の分離というのは統治というか組織維持には寄与するものの、オーナーシップの欠如が発生する可能性があります。特に、長期的な視点での施策の実施という面では弱いのではと危惧します。日本の意思決定と変化への対応の遅さはつとに有名ですが、その原因がこんなところにも表れているのかも知れません。

プラットフォーム化の可能性と限界:品質保証の面から

日本史について書き散らす予定でしたが、畏友風観羽さんの最新ブログに触発されて少し書いてみます。

プラットフォーム化が全領域におよぶ近未来とその問題点について - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る

氏はデジタル化というかプラットフォーム化(この辺の概念も整理が必要か)の破壊的な影響の可能性について書いておられますが、多分実態として判断の根拠となっているであろうウーバーを例に考えて見ましょう。

ウーバーの「成功」にはいくつかの要因があるかと思いますが、第一には「遊んでいるリソースの活用」という点が大きい。最近話題になっているカーシェアなんかもそうですが、車って高価で、ある程度品質が保証され、かつスペースを取る割には使われている時間が短い。相当な社会的資源の浪費です。ですので、この資源の活用は大量の供給が期待できるという意味で安価に提供される。同時に、暇人(というか暇な時間)および小金を稼ぎたいという欲求の存在もあります。しかも、これがパートタイムでの供給で許されるというお気楽さが大きい。見逃せないのはモノとヒトがセットとなって供給されるという点でしょう。

第二は、参入障壁の低さ。必須である運転という技能は広く存在していますし、行先・経路の把握もナビゲーションシステムの普及で特殊技能ではなくなりつつあります。ロンドンのタクシー運転手の資格取得の厳しさは有名ですが、ほろびつつある世界なのかも知れません。

第三の点ですが、個人的にはこれが一番大きいと感じているんですが、既存の製品の品質に問題点があったのではということです。日本は相当いいとは思うんですが、世界的にはタクシーに乗るのはちょっと勇気がいる部分があります。値段交渉が始まるのは日常茶飯ですし、ぼろぼろの車両なんかも当たり前の世界です。日本でも明らかに認知症とわかるドライバーに当たったことがあります。考えたら見ず知らずの相手ですからそれだけリスクはありますし、アメリカなど国によってはタクシードライバーの社会的地位が低い(東欧のようにかえって高い国もありますが)ことも多い。ですので、ウーバーで供給されるサービスの質が多少低くても許されてしまうという面が強くあるんでしょう。

というのが一応のまとめですが、このような動きが社会全体に広がるのかには疑問があります。一番は、今も書いた品質の問題です。

筆者、現在自動車の重要保安部品を製造する会社に奉職しておりますが、その生産現場はここまでやるか、という世界です。そりゃ、不良率がいくら低くても、そのレアな不良に当たったカスタマーにとってはたまったものではないわけで、率ではなく不良が出ても(出さないのは難しいです)絶対に出荷しないという姿勢に徹しています。当然、人の育成と管理には相当なリソースをつぎ込んでいます。自動車のように生命にかかわる製品の製造にはウーバーのようなお気楽なしくみはなかなか入り込めないと感じます。

ウーバー的なシステムについても品質の面から多様化の動きがあるようで、国によっては価格を上げる代わりに品質保証を謳うサービスも登場しています。知っている例では値段は倍になっていますが、かなり人気のようです。また、ドライバーもユーザーも女性に限るという会社がTV紹介されていました。背景には報道されないウーバーの問題点(というか犯罪などのトラブル事例)が見えるがごとくです。

多分、このようなサービスのプラットフォームは多様化する方向にあるんでしょう。考えると、デジタル化の特徴としてセグメンテーションというか、細分化も得意でしたね。ということで、これからの方向を考える上で、デジタル化・プラットフォーム化の得手不得手を見切ることが大切と考える次第です。

 

私家版日本史(1)日本人はなぜ税金を払うのか

のっけから変なタイトルですね。

税は当然その使い道があり、さまざまな行政サービスになっているというのは頭では分かっているんですが、どうも潜在意識というか実感としてはどうなんだろうかと思います。

これは国というものの成り立ちにもかかわると思うんです。

例えばヨーロッパなんかは命を守るというのが根本にあるのではと感じています。今のヨーロッパの原風景は中世社会の成立にあると思うんですが、この場合、出発点はいわゆるバイキングの侵略あたりにあるらしく、ここでそれまでとは大きな断絶があるんですね。どういうことかというと、それまでの支配層のうち、民衆を守れたもののみ生き残り、守れなかったものは守れるものに取って代わられたということです。だいたいは地域の小領主であり、そのネットワークが封建社会ということと理解しています。

これが尾を引いているのではと思うのは、ヨーロッパの君主って正式な写真では今でも揃って軍服で写っているんですね。かつ、王族のかなりの部分は軍人になる。つまり、国民を守るぞ、というメッセージであり、これが国家の存在意義ひいては徴税の根本思想かなと感じるわけです。

中国は王朝の存在が前提とされていたため、徴税はかなりの部分、その荘厳に費やされてきたように思えますが、一方遊牧民族への防衛という部分は見逃せない要因です。例の万里の長城なんかその維持管理コストだけでも馬鹿にならないものですし、大運河なんかも実際に目の当たりのすると(開鑿は隋代ですが、今の形になったのは元の時代とか)、国家という機構の凄さを感じざるを得ません。

これがアメリカですと、さすがに近代に成立しただけあって、行政サービスとか富の再配分などの実利が前に出てきますね。でも、住んでみて思ったのは、政府・自治体の限界を見切っていて、ボランティアとか寄付行為が結構な補完機能を果たしているようです。ですから、小さい政府論がしょっちゅう出てくることになります。

で、日本ですが。

筆者の勝手な思い込みかも知れませんが、少なくとも最近まで税金の使い道という面ではかなり無関心だったような感じがしています。特に、サラリーマン層は源泉徴収ですから徴税されている実感が薄かったですね。

単なる仮説ですが、日本人にとっての税金って、新嘗祭のお供えのようなものじゃないかと。筆者、今の日本人のメンタリティーは江戸期に形成されたと思っていますが、当時の社会はかなりの部分農業社会で、確かに年貢は徴収されたものの、吸い上げる側の武士が案外貧乏でしたよね(この辺最近の磯田先生の分析による)。ですから、搾取の実感があまりなく、だからあんなに長く江戸時代が続いたわけですが、同時に税がどこに行ったか分からない。そもそも、江戸期は非常に治安が良く、外敵の心配もないわけで国防が徴税の心理的根拠にもなりえない。

で、考えられるのが、神というか自然への捧げものとのアナロジーなんです。室町時代の荘園への臨時課税なんかも神事・仏事への奉加という形をとったりしているんで、ありうる事ではと考えています。逆に、払わないと天地がひっくり返ってしまうかも。

そう考えると、日本人ってやはりのんびりしているというか、恵まれた歴史を持っているんだなと実感します。同時に、ゆでガエルの危険もはらんでいるのではと心配ではありますが。

 

開始+再開の記

以前、「ヨーロッパ象の日記http://d.hatena.ne.jp/europezo/20110304/1299188803

」というブログをやっていましたが、久しぶりに再開してみようかと。

ただ、ヨーロッパ駐在は終了したもので、改めてタイトルを考えて見ました。最初、インターナショナル象にしようかと思ったんですが、調べてみると「インターナショナル」って結構手垢が付いてますね。何より「国間の」という、国というものを前提とした言葉なんでちょっと窮屈な感じがしました。

そこで、知的な意味で国というものを超えて遊んでみるという意味でこんな題名をつけてみました。

お付き合いいただければ幸いです。